長く通い続けているので最初に誰に連れて行ってもらったのか覚えてないが、昭和を煮詰めた様な枯れた風情の居酒屋がある。

 駅から少し離れた路地裏の分かりにくい場所にあるのに、いつもお客さんがいっぱいで賑わっている。
 このご時世に全席喫煙可。
 担当するお婆ちゃんが生娘の頃から継ぎ足し続けている、と噂の煮込みが濃厚なのにあっさりしていて絶品。
 酒にそこそこ強いぼくでも、3杯飲むとフラフラになるレモンサワー。焼酎の濃さでは東京随一で、ストレートより濃いという有り得ない話しもある。
 そして当然のこと安い。

 

 先日、その店に飲みに行って、友人&知人が合流してきて10人くらいの飲みになった。

 トイレに行くときに、仲良しのユキちゃんが美人さんと2人でカウンターで飲んでいたので挨拶したら
「あっ、西くん。隣り空いてるからこっちで一緒に飲もうよ」
 と誘ってくれたけれど我慢。
 以前にぼくが教えた北海道の温泉(アイヌの村落の近くにあって、札幌から車で4時間くらいかかる山の中にある。真冬は雪に閉ざされた露天風呂が素晴らしい)に、この冬みんなで行こうという話しで盛り上がっていたので、そちらを放置して美女としっぽり飲んでるわけにはいかない。

 4杯目のレモンサワーを飲みながら、札幌から温泉までのルートや、真冬だと4WDにスタッドレス履いても雪道の運転に慣れている人じゃないと危ないという話しをしているときに仕事の電話が入る。
 店外に出て話していると(レモンサワーの威力なのか?)ちゃんと要点が伝わらないので、30分後に事務所で落ち合って打ち合わせをするこになってしまった。

 電話を切って店内に入り、座敷で飲んでいる友人たちに理由を説明し
「1時間くらいで戻る」
 と伝えて店を出た。

 

 1時間半くらい後に店に戻ると。いつも賑わっているお店にお客がひとりもいない。
 バケツに汲んだ水を店前に撒いてる大将に話しかけたら、今日は早仕舞なのでみんな帰ったとのこと。

 お代を払ってないので確認したら、人が増えたり減ったりしていたみたいで、結局誰も払わずに帰ってしまったそうだ。
 ぼくのグループのことは知っていて〆て3.5万だという。

 

 後日にみんなからお金返してもらえばいいのでぼくが払おうと思って財布を見たら所持金2万円弱。
 当然のことカードが使える店ではないので
「すいません。ぼくが払うけど現金の持ち合わせが足りないので、コンビニ行ってお金下ろして来ますね」
 と伝えたら、大将は若い店員に一緒に着いて行けと目で合図した。

 このまま逃げちゃって無銭飲食するのを疑われたみたいで気分悪いなと思ったら、それを察知したみたいで
「西さん、飲みすぎでフラフラしちゃってて危ないからさ」
 と大将が言っていた。

 

 20年近く通っている店なのに、ずいぶんと失礼な扱いに釈然としない気持ちでコンビニ方面に歩き始めたら、店の奥で洗い物していた若者がやってきた。

 
 見慣れない若者なのでいつから店にいるのか聞いたら、3ヶ月前に入ったバイトのヤスくん。
 俳優になりたくて東京に出てきたけど、身体が小さいのでダメだったらしい。
 確かにぼくよりも随分と小柄ではあるけれど、身体が小さいから俳優になれないってどういうことなんだろう?
 ターミネーターみたいな役をやりたいんだろうか?
 色々と気になる話しだったけれど、初対面であまりプライベートに突っ込むの失礼だと思ったので聞き役に徹していたら、いまは何しろお金を貯めて、いっぱい食べて、身体を大きくしたいんだと言っていた。

 

 表通りに出ずに裏路地ルートを選んだので、コンビニまでの道のりは暗い。

 しかし勝手知ったる我が家というか、幾度となく通った道なのでどこにどんなお店があるか暗記している。

 

 …が。

 レモンサワーが効き過ぎているのか、知ってるお店が1つもない。
 定食屋さんはファーストフードに変わっていて、ラーメン屋さんは「魂や」という、知らない家系に変わっていた。

「えっ? あの定食屋と、前のラーメン屋潰れちゃったの?」
 とヤスくんに訊いたら
「このあたりはバイト始める前がどうだったから知らないんですよ」
 と、煮え切らない返事。

「あのファーストフードのお店だけど、前は定食屋だったの知らないの?」
 と、再度訊いてみたら、ヤスくんはいなくなっていて、当たりは真っ暗。

 目指していたコンビニもなくて、酔いすぎていることを自覚したときに目が覚めた。

 
 

 飲んでいて、仕事の電話で途中で抜けて、そのままお店に戻らずに(支払いせずに)帰ってきてしまったと焦った。

 でも、そういえば今日は飲みに出てないので、支払いしてないのは今日ではないと気づいた。

 

 そうなると、支払いしてないのも夢かと思って思い出してみたら、誰と飲んでいたのかさっぱり分からない。
 札幌の秘湯の話しや、ユキちゃんや、あの座敷の雰囲気は覚えているものの、あのときに一緒に飲んでいたのが誰だったのかさっぱり思い出せず…。

 

 本当はあの店じゃなくて、別の店なんじゃないかと思い出してみたら、例のあの店って、どこの店だ?
 煮込みが有名なお店と、レモンサワーが有名なお店が混ざっていて、友人10人と座敷で飲んで温泉の話しをしていた店なんて、よく考えたらこの世に存在しない。

 

 どこまでが酔いで、どこまでが寝起きの意識混濁なのか?

 

 水を飲んだ後によく考えたら、全てが夢だった。
 自分で見た夢を自分で信じて欺かれる奇妙な体験。

 でも仄かに、あの店で食べたきゅうりのぬか漬けの味を覚えている。