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 お寺で荼毘に付したあとで、タオの骨壷を本尊の前に置いて初七日のお経を上げてもらった。ケムのときは焼いている間にお経を唱えてくれたので、お寺や宗派によって随分と違うもんだ。
 そのときに頂いた回向之証。
 だいたい回向之証ってなに? 政治や宗教や医療やITって専門用語が多過ぎてさっぱりわからん。

 全く信仰心ないんですが、気になってちょっと調べてみたら、初七日でタオの魂が三途の川に到着し、激流か急流か緩流のいずれを渡るか裁かれるそうだ。
 …ということは、もういないのか。
 でもまだ、いる感じがするんだから傍にいてくれてるはず。
 それともタオはちゃんと三途の川を渡ったのかな?

 初七日以降は七日毎に色々あって、五七日がこれまた大事。なんと閻魔大王の裁きを受けるらしい。
 おっちょこちょいで、人見知りで、ビビりのタオが、そんなテストをちゃんとパスできるんだろうか?
「そんなもんいいから、早くおうちに帰っておいで」
 と伝えたい。それが無理なら何でも手伝って上げたい。でも、もう、なにもしてあげられないんだよな…。

 そして四十九日。ここで忌明け。
 来世の行き先が決まる最も大事な日だそうだけど、成仏して極楽浄土に行ければ仏になって、そうでなければ転生するんでしたっけ?
 そしたら転生して帰ってきて欲しいな。でも苦しみや悲しみに満ちた現世に転成するよりは、極楽浄土に行くことを願った方がいいんですよね。

 成仏ということは仏になるということだと思いますが、仏教徒でもない雑種のタオが、果たして仏になるのだろうか?
 仏教って生きとし生けるもの全てを包括してるんだから、タオだって立派な仏様になるのかも。

 天国に行くとか、虹の橋を渡るとか、お星さまになるとか、仏になるとかいいますが、ぼくの感覚としては肉体が滅んでも精神(魂)は残る。
 残るけれども、それは霊魂とか幽霊ということではなくて、残留思念が宇宙意識と解け合うという感じ。
 素粒子レベルで考えれば、あながちそれも間違っていない気がする。
 残った思念は、煙の様に漂って、じわりじわりと希薄化していく。
 タオは、そうやって、どんどん薄まっていく。でも決してゼロにはならない。

 百カ日法要が来年の1月31日。別名は卒哭忌(そつこくき)。
 泣くことをやめて悲しみに区切りをつける日だそうです。

 信仰心はないんですが、閻魔大王の高感度上げる為には五七日(亡くなって35日なので11月27日)は徹底的に供養してあげよう。
 仏壇じゃなくて中陰壇の灯明を欠かさず香炉でお線香を焚き続けよう。

 …って、それは毎日やってることだ。